9.ココナッツとカレーと浴衣
足音はだんだん後ろから近づいてくる。
私は後悔した。
一人っきりでトレッキングコースを歩き出したことを。
後ろから来るのは絶対さっき追い越したあの人だ。
ど、どうしよう、変な人だったら。
オーストラリアで行方不明とか殺人事件とかそんな見出しが私の頭の中をぐるぐる回り始めた。
九日目 5月4日(金) |
寒い朝だった。
どのくらい寒いかというと、長袖の上にウィンドブレーカーを羽織ってもまだ寒い。
ミッションビーチに来てから暑い日ばかり続いていたのでフリースも持ってきていることを忘れてしまっていた。
寒いくらいだからベッドの中はぬくぬくで、パパは珍しく寝過ごした。
「朝日の写真を撮りに行かなくていいの?」
「・・・いいよ」
「だめだめ。大事なパパの朝日コレクションに瑕瑾ができちゃうよ」
しょうがないなぁとパパは起き出して、カメラと三脚を持ってビーチへ向かった。
水平線近くの低いところには雲が多いが、上空はすっきりと晴れ渡っている。
どうやらこの寒さは放射冷却によるものらしい。
日が昇れば暑くなるだろう。
朝ご飯は今日もバルコニーで。
だんだん朝食を食べる時間が遅くなってきている気がする。予定がないとのんびりしてしまう。
そろそろ旅も終盤に差し掛かって食料の残り具合が気になる。買いすぎず、残しすぎず、生ものは帰国までに食べ尽くし、しかも最終日までは保つように調節しなくてはならない。
パパは朝からビール。
仕事も運転もしなくていいと思うとお気楽だな。窓際に並べたVB(ビクトリア州のビール)の空瓶は増える一方。
明後日にはもう帰国。
その前に撮りたい景色は全て撮っておこうと朝からあちこちにカメラを向けている。
部屋の中も。
部屋の外も。
ウォンガリンガの隣に週末だけ灯りのつく豪邸が建っているが、ウォンガリンガと豪邸の間に細いパブリック・ウォークウェイが通っていることは知らなかった。
私たちはいつもウォンガリンガの庭を突っ切ってビーチに行っているから。
パパと二人、こんなところに小径があったんだねとわざわざ通ってみた。
木の間を抜けて伸びる小径を通っていくと、よく知っているはずの場所もまるで見知らぬ場所みたいだ。花びらに朝露が残っている。
予定がない日は子供たちはやっぱりプール。
さっさと着替えては階段を駆け下りていく。
子どもたちの水着はワンピース型を一枚、セパレーツ型を一枚、半袖ラッシュガードとワンピースに付いてきたショートパンツ型のパーツも持ってきたので、組み合わせてそれぞれ三枚ずつ使えることになる。
この旅行用に新調したワンピースはきついと不評で、二人はセパレーツばかり着たがる。
でもセパレーツは肌の露出面積が広いので体温も低下しやすい。母はラッシュガードの着用を勧めた。
「えーっ、嫌だぁ」
まあそう言わずに。ラッシュガードの方が寒くなりにくいから絶対快適だって。
子どもたちにくっついてプールサイドに行くと、日差しがまぶしすぎて目に入るもの全てのコントラストが強い。
何かがさっと上空を横切ったと思って見上げれば大きな蝶が羽ばたいていた。
今日、カナとレナが夢中になって遊んでいるのはサーフボード型の二つの浮き具だった。
二つとも大きさは同じくらいで子供がバランスを取りながら上に立つことができるサイズのものだが、片方はビート板のような素材、もう一方は空気を入れて膨らませるようになっている。
先日紫のヌードルがぽっきりと折れてしまったので代わりにロラリーが出してくれたらしい。
でもこれ、上に立つのはかなり難しい。
当たり前だけど簡単にバランスを崩して水に落ちてしまう。
最初はしがみつくように乗って遊んでいるだけだったが、そのうちレナが上に立つことをチャレンジし始めた。
元々レナはかなりバランスの良いタイプ。スケート靴をはかせても、滑るのは苦手ながら何故か止まって片足で立つのは得意。
「カナは立たないの?」
「立つ気無いもん」
性格の違いが出る。
ロラリーは朝からプールサイドのパラソル付きテーブルと椅子にニスを塗っている。
電球を取り替えに来てもらったときも思ったけれど、女性二人で貸しアパートのメンテナンスなども全てこなしているのだから、時には力仕事なんかもやらなくちゃならない。
パパがロラリーの所に歩いていった。
煙草を一本渡している。
ロラリーはフーッと一服。
私からすると二人はプール越しなので話している会話は聞こえてこない。
後からパパに聞くと、オーストラリアの煙草が如何に高いかと言った話をしていたんだって。
ロラリーはしばらく炎天下で作業していたが、そのうち疲れたから今日はここまでと言って部屋に戻ってしまった。ニス塗りの続きはどうやら明日に持ち越されたらしい。
子どもたちにラッシュガードを着せたのは正解だったのか失敗だったのか。
寒くならないのを良いことに、何時まで経っても上がってこない。
パパがちょっとちょっとと私のことを呼んだ。
「隣の8号室、鍵が開いているから見てきてご覧よ。一昨年とずいぶん変わっているよ」
8号室は三日前、シドニーに行く日本人一家がチェックアウトしてから空き室になっている。
どれどれと見に行くと、確かにリビングのソファーやダイニングセットが籐を編んだようなものに変わっているし、ブルーやグリーンのコーラルカラーで統一されていたファブリックも臙脂や茶色のアジアを意識したものに変わっていた。
スウィングチェアーがセカンドバルコニーからメインバルコニーに移されているのは知っていたが、前にスウィングチェアーが設置されていたセカンドバルコニーには代わりに円形のソファーが置かれていた。
後でレナにも見せたら、8号室の方が今回私たちが泊まっている9号室より豪華でずるいと言い出した。
レナにとっては8号室のベッドルームのクッションがレースで縁取りされていたことが許せなかったらしい。
私は9号室の方が眺めが良くて好きなんだけどな。
午前中はそんな感じでプールとビーチをふらふらと行き来して終わってしまった。
実は今日の夕方からクロコダイルスポッティングのツアーに行くつもりで朝のうちに申し込みをしたのだが、昼になって申し込んだリバーラットから返答があって、その内容は今日はもういっぱいなので悪いけど諦めてというもの。残念な結果に終わってしまった。
「結構混んでいるんだね。オージー、クロコダイル探しとか好きだから」
「いや・・・」と私。「逆に催行人数に足りないので断られたような気がする。だって今、オフシーズンなんでしょ。こないだ昼過ぎに勧誘に回っていたぐらいだから、人数集まらないんだと思う」
真相は分からないが、もしかしたら当日ではなく数日前に申し込んでいたら催行してくれたかもしれない。まあ後の祭り。とにかく今日クロコダイルを見に行かれなくなったことは確か。
クロコダイルスポッティングはリバーラットの他にもう一社、クロコダリというところがあるが、こちらは一昨年体験したので同じじゃつまらないしな、とパパは言った。
明日は週末だけど、もう帰国前日だから夜のツアーは無理。
何だか二日続けてぽっかりと予定が空いてしまった気分。
お昼はパパがカレーを作った。
この間、タリーのスーパーマーケットで買ったタイカレーのペーストと、一昨日ウォンガリングビーチのスーパーマーケットで買ったココナッツミルクを使って。
「すっっごい旨そうなのができたぞ。どうだ? 食べさせてあげてもいいぞ」
「そんなこと言うなら食べてあげないよ」
「マジ旨いって。めっちゃくちゃ旨いって」
肉、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、マッシュルームが入っている。
思ったほど辛くない。子供でも大丈夫。とろみがついているところが日本のカレーっぽい感じ。
パパ・シェフがわくわくとこちらを見ているので「美味しいです」とお約束の一言。
食後のデザートは、甘い物好きのレナはTimTam。
甘いもの嫌いのカナは「私の食べるものが無い」。
そんなことないよ、これはどう?
穀物ビスケットを出した。これはカナも大好き。
「パパはもう、今日はどこへも行くつもりは無いんでしょ?」
「うーん・・・まあね」
子どもたちはプール三昧。パパはバルコニーでのんびり日光浴していれば幸せ。
でも私はどこかへ出かけたい。別に遠くじゃなくて良いから、少しでも時間があるならここならではのものを見たり歩いたりしたい。
「またどこか
ミッションビーチのウォーキングトラックを歩いてこようと思って。このThe Ulysses Link joins The Cutten Brothers' Walking Trackはどうかな。距離は2キロ。所要時間は45分。何より場所がクランプポイント桟橋からミッションビーチのビジターセンターまでの海岸沿いだから道に迷ったりしないと思うんだ。これなら私一人でも歩けそうでしょ」
「いいよ」
今までこのコースを歩かなかったのは、コースがラウンドになっていなかったからだ。つまり一方通行。ということは、往復すれば2倍の時間が掛かるし、そうでなければ誰かが片道を送迎しないとならない。
一人で歩くならちょうどいい。
パパに車で送迎していもらえば良いんだから。
3時15分。私たちは子どもたちに留守番を頼んで出発した。
パパには私が歩いている間、部屋に戻ってきても良いよと言ったが、45分なんて中途半端だからミッションビーチのカフェで待っているという返事だった。
途中でスクールバスを追い越す。
学校の下校時間らしい。
通りのあちこちで昨日の朝のBちゃんと同じ制服を着た子どもたちが大きなリュックを背負って歩いている姿を目にする。
中には裸足の子もいる。
おおーい、裸足で授業も受けたのかい?
「どこのカフェで待ち合わせ?」
「カフェ・ゲッコーにしよう」とパパは言っていたはずだが、ミッションビーチのメインストリートを通り過ぎるときに急に意見を翻した。
「やっぱりゲッコーはやめにした。ゲッコーの隣の店で待っているから」
カフェ・ゲッコーは一昨年ランチを食べたことがある。ゲッコーの絵のついた緑の看板が目印だ。
「なんでやめにしたの?」
「・・・禁煙店だったから」
ユリシスリンクとカトンブラザーズのウォーキングトラックはクランプポイント桟橋からスタートする。
クランプポイント桟橋というのはミッションビーチの北の外れにある桟橋でここからローレンスカバナーやクイックキャットなどダンク島行きフェリーが出航する。
ウォーキングトラックのコースは、そこから海岸沿いを歩いてミッションビーチ方面に戻り、ビジターセンターからメインストリートの辺りにかけてが終点になる。
ビジターセンターの隣に週末にはマーケットが開かれる公園があり、そこにユリシスリンクと書かれたトーテムポールのようなものが立っている。たぶんあれがコースの出口だ。
「じゃ、行ってらっしゃい。えーと・・・」パパは自分の腕時計を確認して「4時10分だな。4時10分にゲッコーの隣のカフェで待っているから」
「・・・道に迷ったらどうしよう」
「海岸沿いなんだから迷わない迷わない」
うーっ。
車を降ろされたのは、まさに一昨年ダンク島行きフェリーの受付を済ませた場所だった。
ダンク島のトレードマークでもあるユリシスの描かれた看板。
フェリーのチケットオフィスは今は船の出る時間ではないので閑散としている。
受付のお姉さんが一人、暇そうにオフィスの中に座っているだけだ。
私も時計を見る。
もう3時25分なんだからカフェでの待ち合わせまで45分しかない。
標準コースタイムが45分ということは、鳥や蝶を追いかけていたらあっと言う間に時間オーバーだ。とほほ。またか。別行動を取ってもやっぱりゆっくりとは歩かせてもらえないのね。
チケットオフィスの建物の前を通って、あたりをきょろきょろと見回した。
コースはたぶん入ってしまえば迷うことはないけど、まずそのコースの入り口がどこにあるんだ? 判らない・・・。
うろうろしながらとにかく海岸沿いに出てみることにした。
海岸に出ると目の前に桟橋が見えた。
ここは正確にはミッションビーチではなくミッションビーチの北隣にあるナラゴンビーチというところで緩い小さな湾になっている。
ここからミッションビーチ方面をのぞむと、ちょうどクランプポイントという岬が飛び出しているので(クランプポイントというのは昨日、アウターリーフに行くときボートが着いたパブリック・ボートランプのある場所だ)、海に沿って真っ直ぐ歩くことはできない。
ウォーキングトラックのコースは岬の根元を横断するようになっていたはずだ。
午後の海岸は誰もいない・・・。
いや・・・一人だけ。桟橋の向こうから誰かが歩いてくる。
この辺りは宿泊施設も娯楽施設も何も無いけどお散歩している人だろうか。
桟橋の北側にはもうウォーキングトラックのコースのようなものすら無いはずなのに。
私が海の写真を撮っていると、その人はだんだん近づいてきた。
普通に歩いているように見えて結構足が速い。
桟橋の下を潜って波打ち際を歩いている。
私はフェリー乗り場のオフィスから砂浜に足を踏み入れたばかりだったので通過していったその人とは距離が開いていた。
何だかちょっと不審な出で立ち。見た目は・・・痩せていて背が高い。そう、サッカーのラモスみたいな風貌で髪はぼさぼさ日焼けして服装はカジュアルと浮浪者の中間ぐらいだ。
その人は歩きながらどんどん海の方に入っていった。
な、何をしているんだろう?
何かを拾っているように見える。
それからその人は湾の外れまで来ると立ち止まり、また何か妙なことを始めた。
私は迷っていた。
どうやらウォーキングトラックの入り口は、あの不審な人物が何かしている辺りにあるらしい。
あの人がさっさとコースに入って歩いていってしまえば向こうの方が足が速いから何も心配はないが、こうして入り口で立ち止まっていられると、私はあのすぐ横を通らなくてはならない。
どうしよう、どうしよう。
ほんの数分待ってみたが、その人は何かをするのに夢中で歩き出す様子はない。
こちらの時間も限られていることだし・・・。
仕方ないので歩き出すことにした。
幸いコースの入り口とその人がいる場所とは数メートル離れている。なるべくあちらを見ないようにしよう。
で、でも何をしているのか気になる。
ちらっと横目で見ると、大きな岩がある場所で何か刃物を出して力一杯振り下ろしている。ガツッガツッという音が聞こえる。
こ、怖いよ〜。
どうかこちらを見ないで。
早く通り過ぎてしまわなくちゃ。
ウォーキングトラックの入り口は森にぽっかりと開いた小径のような場所だった。
足下はまあまあ歩きやすい。
地図では海沿いに見えたから左手にしばらく海が見えるのかと思ったが、このコースはむしろ海の近くの森の中を歩くコースでラスト、クランプポイントを越えてビジターセンターの近くまで行かないと海は見られないのだった。
私はすぐに桟橋を潜ってやってきた不審な人物のことも忘れてしまった。
森の中を歩くのはとても気持ちが良くて、ビクトンヒルほどではないにしても時々綺麗な蝶が横切るし、頭上からは鳥の声が聞こえてくる。
たわわに実るパパイヤの木も見つけた。
ところどころ歩きにくい場所は木道が通されている。
この森もやはり花の姿がほとんど無い。緑一色の古い森だ。
歩き始めて5分ぐらいしただろうか。
ふいに後ろから足音が近づいてきた。
ざっざっざっざっ・・・。
とたんに思い出した。
あの人だ。さっきまでコースの入り口で刃物を振り下ろしていた人だ。
ど、どうしよう。
ビクトンヒルやヒンチンブルック島で女性が一人でウォーキングしていたからって、自分にもできると思ったのが間違いだったのかもしれない。
やっぱりパパに一緒に歩いてもらうべきだったか。
こんなところで大声を上げたところで誰一人気づかない。
オーストラリアで行方不明とか殺人事件とかそんな見出しが私の頭の中をぐるぐる回り始めた。
足音はどんどん近づいてきた。
私は恐る恐る後ろを振り向き、それからびくびくしながら道の端に寄った。
「お先にどうぞ」
やっぱりあの人だった。
その人は「サンキュ」と言うと私を追い越してまたざっざっと足早に歩いていった。
ホッ。
気を抜いたのもつかの間。
やおらその人は立ち止まり振り返った。
ぎゃ〜っ。
そして何と戻ってきた。
「ココナッツは好きか?」
「い、い、い、いえす・・・」
そうか、というようにその人は肯くと、背負っていた薄汚れたリュックを降ろした。
そしてリュックの中からごろんと、外側の皮を剥いたココナッツの実をひとつ取り出し、何かの刃物でくるくるっと器用にてっぺんの所に丸い穴を開けた。
「飲んでごらん」
「は、は、は、はい・・・」
否とは言えない。毒を入れる暇なんて無かったはずだと思いながらココナッツに口をつけた。
砂糖なんかとは違う種類の甘みがある天然ココナッツジュースの味だ。
「美味しい?」
「さ、さ、サンキュ」
「うん、良かった。じゃ」
今度こそ本当にその人はざっざっと足音を立てて行ってしまった。
ああ〜っびっくりしたぁぁぁ。
私の手に残されたのはずっしりと重いココナッツ。
どうやらあの人が海の中に行ってせっせと拾っていたのは椰子の実だったらしい。
そしてウォーキングトラックの入り口近くでガツッガツッと割っていたのは椰子の実の外側の殻だったのだ。
彼のリュックにはまだまだ沢山のココナッツが入っているようだった。
彼は怖い人ではなく実は親切な人だった。
疑ってごめんなさい。
コースはほとんど熱帯雨林の森だったが、ところどころ海の近くではマングローブも見えた。
マングローブの根の間をうろうろしている鳥がいたので撮ろうとしたが逃げてしまった。
ココナッツは重く丸く毛だらけで、斜めにすると中身がこぼれてしまうので持ちにくかったが、流石にジュースを全部は飲みきれず、せっかくだからそのまま持ち帰ろうと常に左手で抱えていた。右手はカメラ撮影用に空けてある。
コースがふいに舗装された道路に出たと思ったら、そこは何度も車で通ったことのあるクランプポイント方面への入り口だった。
ここからは海が見える。
公園の中の散策路と言った雰囲気で、ビーチで遊ぶ家族連れなどの姿も見えた。
ミッションビーチから見るダンク島の形は、ウォンガリングビーチから見るのと違って二つの小山のようだ。
歩いていくとすぐにビジターセンターがあり、それから子供の遊具とキャラバンパークがあった。
そろそろ終点だ。
もう予定時間を10分近くオーバーしていたので、急いでパパの待っているカフェに行こうと道を渡ったら、パパが車で迎えに来たのが見えた。
「ごめんごめん遅くなって。カフェはどうだった?」
「うーん、あのカフェ良いなぁ。可愛いお姉さんがいるんだよ」
「何、一昨年のシーフードショップの店員さんみたいな?」
「ううん、もっとアジアンなタイプ。で、その手に持っているココナッツはいったい何?」
ん、聞きたい? 話せば長くなるよ。
持ち帰ったココナッツの中身をコップに移すとちょうど一杯分あった。
カナは恐れて飲もうとしなかったが、レナは結構気に入って美味しいとごくごく飲んでいた。
私たちが戻ったところで子どもたちはまたプール。
本当に一日中プールで遊んでいるような気がする。
練習を何度も繰り返したので二人ともボードの上に直立できるようになった。
プールサイドにロラリーがやってきたので、パパは早速自分が作ったカレーをタッパーに入れて渡した。
「ジャパニーズ・スタイルのカレーだから良かったら」
ロラリーは嬉しそうな顔をした。
「私も娘のBもカレーは大好きよ。ウォンガリングビーチにもタイ料理店があるんだけど・・・」
そして私に聞く。
「あなたの旦那さんはコックなの?」
いやー、単なる趣味です。
非常に有り難い趣味だけど。
夕方になるといつものようにBちゃんもプールにやってきた。
まだカナもレナも打ち解けず、少し離れて遊んでいる。
Bちゃんはカナより二つ年上だから、日本の同じ年の子だったら小学校六年生で毎日習い事とか塾とかであまり外で遊ぶ時間も無いような気がする。
Bちゃんもクラリネットを習っていて、ロラリーは毎日ノイジーなのよなんて笑っていたが、夕方はいつも外で遊んでいる。やっぱり受験事情とかも日本とは全然違うんだろうなと思う。
実は私たちはBちゃんにトライしてもらおうと浴衣を持ってきていた。
今日はチャンスのような気がする。
「ねえ、Bちゃん、良かったら日本のカジュアル・キモノを着てみない?」
オーストラリア人は浴衣が好きだ。
外国の人はみんなそうかもしれないけど、如何にも「日本」というエキゾチックな衣装にとても興味があるみたいだ。
本物の着物なんて高いし荷物になるからおいそれと旅行に持ってこられないけど、浴衣なら簡単。帯もかさばらないように兵児帯で十分。
三年前に
ポートダグラスのサンデーマーケットで子どもたちに着せたら、予想以上に好評で、いろんな人に話しかけられた。
一昨年はこのウォンガリンガのプールサイドでやっぱりロラリーが喜んでくれたので、今年はぜひBちゃんにも着せてあげようと思っていた。
ただ、我が家は日本ではほとんど浴衣を使わないので去年は浴衣を新調しなかった。
二年前の浴衣では、もうサイズが合わない。当時カナが着ていた浴衣がレナにぴったりなくらいだ。
そこで新しいものを探したが、シーズン的に3月4月は浴衣なんて置いていない店がほとんど。ようやく近所の商店街の和服屋で倉庫から出してもらった。
私はカナははっきりした色の方が似合うと思ったが、本人が選んだのはパステルピンクの浴衣だった。
まあ着るのはカナなんだから自分が気に入った色柄でいいんだけど。
カナは背も低いがとにかく痩せているので、サイズだけでは測れず、試着しながら決められたので近所の店で買うことができて良かった。同じ120-130サイズの浴衣でも、長さも横幅もメーカーによって全然違う。
ただ、そんな風に自分で選んだ浴衣だからこそ、自分より先にBちゃんに着せるのには抵抗があったらしい。
私もまだ着ていないのに・・・というカナを説得して浴衣と帯をプールサイドに持っていった。
それからいつもの折り紙も。
パパが何かを取りに部屋に戻ってしまったので、私はBちゃんに浴衣を着せる前に折り鶴を教えた。
彼女は飲み込みがよく、私が折るとおりについてくる。一番難しいところだけ少し手伝って、後は一人で織り上げた。
それからパパが戻ってきたので浴衣の方も着せてみた。
ぬれた水着をタオルで軽く拭いて、その上から着せてみる。
シャイなBちゃんはどうしよう、本当にいいの?という表情をしている。
でも嬉しかったようで、カメラを向けたらポーズを取ってくれた。
その一部始終を見ていたギャラリーがいた。
私たちの隣の棟の一階に泊まっている老夫婦グループのご婦人方だ。ちょうど今日もプール近くの外テーブルで読書やおしゃべりに勤しんでいたところだ。
「Bちゃん、できたよ。お母さんに見せてきたら?」とパパが言うと、Bちゃんは逡巡した後ぱっとオフィスの奥へ駆けていった。
もうギャラリーはやんややんや大喜びだ。
ロラリーは部屋で友人と談笑中だったようだ。
Bちゃんがなかなか戻ってこないと思ったら、Bちゃんはロラリーと彼女の友人を伴って現れた。
娘が浴衣を着ているので吃驚している。
パパが「ビューティフル」と言うと、ロラリーはごくまじめな顔で「あら、娘はエブリディ、ビューティフルよ」と言うので可笑しくなってしまった。
Bちゃんはもちろん浴衣なんて着馴れていないので、座るとき、わざわざ浴衣の裾を左右に押し広げているのが面白かった。
日本人だと裾が割れないように隠す方に動かすのにこういうところも違うんだなという感じ。
流石に窮屈だったのか、みんなに見せた後彼女はもう着替えてもいい?と心配そうに聞いてきた。
最近夕御飯の後は、パパは毎日バルコニーの寝椅子でうたた寝している。
風邪を引くからと起こしながら、「ねぇ、今回は星空を撮影しないの?」と聞いてみた。
大学で地学愛好会会長だったパパは天体写真が得意のはずだ(参考 パパの
簡単! オーストラリア星空天体写真撮影術)。
「せっかく新しいカメラを持ってきたけどキヤノンPowerShot S3 ISは露出時間が長くても数分しか設定できないから天体写真は無理だよ。最低15分は開けっ放しにできないと。それに毎晩月が明るすぎて星は撮れないよ」
確かに毎晩、月は明るい。
旅行を初めて最初の頃は夕方から中空に白い月が昇っていた。
月の昇る時間はだんだん遅くなってきて、今は暗くなってから昇り明け方まで残っている。
パパは星は撮らないと言いながらカメラを持って何か撮りに行ってしまった。
なかなか戻ってこない。
しばらく待った後、痺れを切らして自分もビーチへ出てみた。
暗闇の中、波の音が近く聞こえる。
風が冷たくなっていて、長袖を着ていても寒く感じた。
ダンク島の真上、中空に冴え渡った光を放つまんまるな満月。
月は一等星を従えて、天の川はビーチ背後の山からダンク島まできらきらと流れている。
怖いくらいの月夜だ。
十日目「キャッチア(リトルリトル)クラブ」へ続く